武田戦車道場★プラモ戦記

ミリプラ好きの管理人武田のうんちくブログ

BANDAI ALTO (DARK GRAY) 30MM 1/144 eEXM-17 アルト (ダークグレー)

アルト ダークグレーを組んだ。
夜戦仕様カラー。
アルトレッドより紫の内関節をコンバート。
肩装甲に隊長機用オプションパーツを換装。

アルトのレッドの内関節とコンバートし、好みのカラーにコーディネ―トした。

フェイスガードもパープルより転用。カメラアイもイエローの濁りのある方を選択。この後指揮官機用フェイスに換装が決まっている。

黒、ダークグレー、パープルは陰なカラーだが、全体としてグレーで落ち着いた纏まりがあると思う。

三枚目の写真に見える通り、夜戦に適している迷彩と云える。

私の同級生で甲賀流忍術を研究している友がいたが、彼が云う事には忍者の装束は黒では無くて、本当はグレーもしくはライトグレーであったと検証していた。

寧ろ暗闇では黒が目立ってしまうと指摘を受けた事がある。

彼が云うには、忍者着は百姓が日常生活で着る作務衣がベースで、専用の物は本来無いとのことだそうだ。

もし、忍者が追手に追跡された場合、帰り道でどこかの百姓連中に紛れ込むのが常套手段だったらしい。そのため、百姓着の重ね着であったであろうと想像が付く。

私も忍法を研究しており、伊賀、名張にほぼ毎日6年間ほど通ったことがある。

一言いわせてもらうなら当時、忍者では無く、ニンシャと呼ばれていたと云う。同じく修験者が、スゲシャもしくはスゲサであったと思う。

これは、私が猿飛び影流、新影流、陰流を研究していた時に、陰流日本剣術の始祖、愛州移香斎の生誕地候補の地で発行された、冊子に載っていた物である。

私は骨法源流系の兵法を習得しており、色々な道場を渡っていた時期があった。

そこで、道場仲間が忍法を習っている人を紹介してくれたことがあり、そこで技を教えてもらったのだが、その忍術はかなりエグイ形のものであり、一般のひとには危険過ぎて、とても広く教えるわけにもいかないと思ったものである。

要約すると相手に酷い怪我、骨折を強いるほどの禁じ手の技ばかりであった。

忍者業は確かに命がけの任務で、担保として家族を人質に取られるのが常で、考えてみれば当然厳しい技なはずであると納得がいくものである。

もし、自分が捕まってしまたら、愛する家族肉親が殺されてしまうのである。

たまったものではない。

忍者に詳しい人は周知のことと思うが、陸上自衛隊教本の国防の第一義に、日本の忍者の最初は聖徳太子が開設した志能備シノウビが起源で、忍び、しのびの基になっている。

これはシークレットサービス、諜報機関である。聖徳太子といえば、仏教を日本に導入した人物で、存在しなかったのでは?とまでいわるミステリアスな人である。

同時に十人の人の話しが聞けたとか、その愛犬の雪丸だったかがしゃべったとか、地球儀をもっていたとか、超能力者とか、祟りがあったとか色々いわくつきな偉人であるが、私が太子ゆかりの地湯船で記念撮影した写メに無数の赤いゆらゆらした光線が写っていたので、皆で恐怖したというか、驚嘆したのをおもいだす。

私の説では、仏教とともに孫子の兵法書も輸入して学んだに違いないと思うし、孫子兵法書を持ち込んだのは吉備真備キビノマキビと言われもするが、すでに伊賀の大伴細人おおとものさびとを志能便しのびとして用いていた。

時系列でもう少し遡って調べたいと思うが、遣隋使派遣で兵法書も一式仏教寺院経由で日本へ入れたと思う。

神道派の物部氏を滅ぼした際に、孫子の兵法を用いたとされる。軍師は渡来人、秦河勝。

一説によれば、聖徳太子もトルコ系渡来人系だとされる。

これは歴史好きでドイツ軍好きで金魚好きで趣味がかぶる知人がいっていたが、猿田彦はトルコ系と私が彼に伝えたところ、サルタン、スルタンはトルコ語、マレー語、アラビア語で権威、国王、皇帝などと訳されるといっていた。

高校の非常勤の歴史の先生が語っていたのは、なぜ仁徳天皇陵が暴かれないのかといえば、天皇が渡来系とバレテしまうからとなんども力説していたのをおもいだす。

また、名張を探索した時に見つけた円墳か前方後円墳が、百済系渡来人の王の墓と明記されていたのを思い出す。

三重県の山奥を探検した時に神社ののきに掲げてあった木の看板に当て字の神様が五人ほど書かれていたが、今思うと、愛新覚羅溥儀みたいなノリであったので、渤海とかその辺の方から渡来したのでは、と思う。

他に息早の王子みたいな神様の古墳か神社もあった。それも当て字で長かった印象である。

その当時の渡り神は当て字の長い名前が流行っていたのではと思う。共通のモードがある。

弘法太子空海も渤海経由で長安に行ったのでそちら経由であると仮説を立てる。

因みに空海は真言密教で、愛州移香斎は雑密の修験道開祖役小角えんのおずぬの修行方を学んだとされる。

結論として、仏教書、道教書、法律書、兵法書が一纏めで輸入されたこと。それが何回かに分けて日本に入ってきたこと。

孫子の兵法が何回かに分けて輸入されたこと。

平安時代後期、源義家が土下座して大江匡房おおえのまさふさから日本最古兵法書(闘戦経)を伝授されたとある。

これは六トウ、三略、孫子、呉子を天皇に委託管理させられており、纏めた秘伝の書であり、天皇の命により我が先祖八幡太郎義家に伝授された。

こののち、時代が下り武田信玄(私の先祖)に伝わり、ナポレオンに伝わった。がしかし、教養のないヒトラーは人種差別により、黄色いアジア人の穢れた書き物の孫子兵法を読まなかったらしい。ドイツ軍参謀、将軍は皆読んでいたらしいが・・・

アルトの話しの途中であるが、次号に続く。

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